応神天皇没年が出土遺物で解けた

 

 『古事記』は、応神天皇の崩御の干支を「甲午(きのえうま)」とする。だが私は先のページで述べたようにこの干支に疑問を抱く。その疑問が、思いがけない遺物によって解けることになった。

まず、『日本書紀』では、神功皇后46年の記事で、二年前の干支を「甲子(きのえね)」と記す。これを西暦364年とすると、以降の干支は朝鮮史書と一致する。朝鮮史書の年代を基に、『日本書紀』の年代を干支2巡、すなわち120年新しくすると、この時代の暦年代が明確になる。この一致は、応神天皇22年、すなわち411年の記事まで続く。

しかし、応神天皇25年の記事から『三国史記』との年次が合わなくなる。『日本書紀』によれば、百済の直支王(ときおう)が没し、息子の久爾辛(くにしん)が王位を継いだとされるが、『日本書紀』では414年、『三国史記』では420年となる。

さらに、中国の史書『晋書』倭国条によれば、413年に「東晋の安帝に倭国が方物を献上した」とあり、『梁書』諸夷伝倭国条には「安帝の時に倭王讃あり」とする。私はこの「倭王讃」を仁徳天皇と考える。したがって413年には仁徳天皇の時代が始まっている。。これにより、応神天皇の時代は411年または412年までだったと考える。

この推測を裏付ける遺物が出土している。それは、平城宮跡の発掘調査で出土した木製品の年輪年代測定結果である。詳細については、奈良文化財研究所の光谷拓美氏の著書『平城宮下層古墳時代の遺物と年輪年代』を参照していただきたい。

1996年に平城宮跡の自然流路の溝跡から、長さ86.5cm、幅61.0cm、厚さ6.8cmの大型の木製品が出土した。この木製品は両端に突起がある不整形な円盤で、イチジクのような形である。調査報告書では、この木製品の用途は不明とされているが、私は木棺の仕切り板だと考える。

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光谷氏によれば、この木製品はヒノキ材で、樹皮直下の年輪まで完全に保存されており、年輪年代測定の結果、412年に伐採されたことが判明しました。最終の年輪が春材部分のみで夏材部分が未形成であったため、伐採時期は夏前と特定された。

もしこの木製品が木棺の仕切り板だとすると、木棺の直径は1メートルほどであり、庶民のものではない。さらに、出土場所は応神天皇の母・神功皇后が葬られたとされる佐紀古墳群の近くである。応神天皇の喪狩りがこの場所で行われた可能性が高い。この木製品が応神天皇木棺の仕切り板という私の見解が正しければ、応神天皇は412年の春に崩御したのである。これにより、応神天皇の没年が確定した。