『記紀』に見る天皇没年の違い
『日本書紀』は神武以降について天皇崩御(没)年、年次を記す。
また『古事記』に年次はないが、一部天皇について崩御干支(えと)を記す。この干支から推測される年次と『日本書紀』の年次とを比較してみる。
古事記 | 日本書紀 | ||||
天皇代位 | 天皇名 | 崩年干支 | 推定西暦年 | 崩年干支 | 西暦換算年 |
1 | 神武 | 丙子 | 紀元前585 | ||
2 | 綏靖 | 壬子 | 549 | ||
3 | 安寧 | 庚寅 | 511 | ||
4 | 懿徳 | 甲子 | 477 | ||
5 | 孝昭 | 戊子 | 393 | ||
6 | 孝安 | 庚午 | 291 | ||
7 | 孝霊 | 丙戌 | 215 | ||
8 | 孝元 | 癸未 | 158 | ||
9 | 開化 | 癸未 | 98 | ||
10 | 崇神 | 戊寅 | 紀元318 | 辛卯 | 紀元前30 |
11 | 垂仁 | 庚午 | 紀元70 | ||
12 | 景行 | 庚午 | 130 | ||
13 | 成務 | 乙卯 | 355 | 庚午 | 190 |
14 | 仲哀 | 壬戌 | 362 | 庚辰 | 200 |
神功 | 己丑 | 269 | |||
15 | 応神 | 甲午 | 394 | 庚午 | 310 |
16 | 仁徳 | 丁卯 | 427 | 己亥 | 399 |
17 | 履中 | 壬申 | 432 | 乙巳 | 405 |
18 | 反正 | 丁丑 | 437 | 庚戌 | 410 |
19 | 允恭 | 甲午 | 454 | 癸巳 | 453 |
20 | 安康 | 丙申 | 456 | ||
21 | 雄略 | 己巳 | 489 | 己未 | 479 |
22 | 清寧 | 甲子 | 484 | ||
23 | 顕宗 | 丁卯 | 487 | ||
24 | 仁賢 | 戊寅 | 498 | ||
25 | 武烈 | 丙戌 | 506 | ||
26 | 継体 | 丁未 | 527 | 辛亥 | 531 |
27 | 安閑 | 乙卯 | 535 | 乙卯 | 535 |
28 | 宣化 | 己未 | 539 | ||
29 | 欽明 | 辛卯 | 571 | ||
30 | 敏達 | 甲辰 | 584 | 乙巳 | 585 |
31 | 用明 | 丁未 | 587 | 丁未 | 587 |
32 | 崇峻 | 壬子 | 592 | 壬子 | 592 |
33 | 推古 | 戊子 | 628 | 戊子 | 628 |
下の図は『古事記』と『日本書紀』の天皇崩御年を、グラフにしたものである。
27代安閑あたり以降の崩御年は、『古事記』と『日本書紀』でほぼ一致する。
『日本書紀』が完成したのは西暦720年、『古事記』は712年とされるから、200年くらい前の安閑あたり以降の年代は、信じられそうである。
しかし19代允恭(いんぎょう)あたりを境にして、『日本書紀』と『古事記』の記述に乖離(かいり)が見られる。
『日本書紀』の古い時代の天皇寿命は、あり得ない長寿とする。年次を遡らせた可能性がある。
一方『古事記』では、欠落する情報が作為の無さをうかがわせる。したがって『古事記』の天皇没年干支で、『日本書紀』の実年代を探ってみる。
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