『後漢書』倭伝は『魏志倭人伝』からの派生ではない

 この国の古代史を探るうえで、倭国について記された二つの貴重な中国史書がある。『魏志倭人伝』と『後漢書』東夷伝の、倭についての記述である。ここではこれを『後漢書』倭伝とする。


この国に不幸な認識が蔓延している。それは『後漢書』倭伝は『魏志倭人伝』からの派生であるという説である。確かに『後漢書』の成立は『三国志』の成立より150年くらい遅れる。だが『後漢書』倭伝の記述は『魏志倭人伝』からの派生ではない。

『後漢書』の作者范曄は、240年邪馬台国を訪れた魏の使者の、報告書あるいは見聞録のようなものを参照している。一方『三国志』の著者、陳寿は、この報告書を元にした、二次史料を参照している。
二つを読み比べていただきたい。二っは単語レベルでは、極めてよく似る。だが文節単位では一つとして同じものはない。また『後漢書』倭伝には『魏志倭人伝』に書かれていないことが書かれている。さらに同じ事の説明でも、意味がまったく異なる箇所がある。
もし『後漢書』倭伝が『魏志倭人伝』を参照して書かれたなら、なぜこんなことが起きるのかである。
 

『後漢書』倭伝は、『魏志倭人伝』の約2000文字に対し『後漢書』の倭に関する文字数は倭に関する部分700文字程度である。ここに『魏志倭人伝』の全文を示し、『後漢書』倭伝に対応する記事がある部分を赤文字で示す。

『後漢書』倭伝が記述する範囲は『魏志倭人伝』の特定の範囲に限定される。それは240年倭を訪れた、魏の使者の報告書による部分のみである。『後漢書』倭伝が『魏志倭人伝』の全体の要約などではないことは明らかである。『後漢書』倭伝の記述範囲は、最後の徐福伝説の部分を除き、すべて『魏志倭人伝』の記述範囲に収まる。魏の使者の報告書のみを参照しているのである。

 

A【倭の意地理的概況】
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

B【女王国に至る道順と周辺の国】
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰?馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。

C【倭国の風俗、社会、産物等】
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。
其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵?緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳、朱崖同。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用?豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
出眞珠、青玉。
其山有丹、其木有枏、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、襄荷、不知以爲滋味。有獮猴、黒雉。
其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。
其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。【魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妬忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。
尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

D【女王国の歴史と卑弥呼について】
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

E【女王国から離れた国々】
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

F【魏との外交】
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、喪到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今喪汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。

正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物。倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑 緜衣、丹木、拊短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。

G【卑弥呼以降の女王国】
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與、臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
 

『後漢書』倭伝は240年邪馬台国を訪れた、魏の使者の報告書のみを参照している。したがって卑弥呼没後の記事などは一切記さない。

一方『魏志倭人伝』は、卑弥呼没後の台与の朝貢記事などにも触れる。複数の史料によって構成されている。次に述べるように、『後漢書』倭伝と『魏志倭人伝』の内容があまりにも違いすぎる。范曄と陳寿は、それぞれ別の史料を参照している。陳寿は、魏の時代を扱った歴史書という、2次史料によって著述を成している。 

ただし単語や文の構成の酷似は、同一の原典に依るものであることは明らかである。一度二っを比較して読んでいただきたい。そこで次に二つの文の比較を提示する。

『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』との比較

単語レベルではよく似るが、まったく同じ文章は存在しない。
また『後漢書倭伝』と『魏志倭人伝』とで意味のまったく異なる部分がある。

更に『後漢書倭伝』には『魏志倭人伝』に見られない情報が記される。

(魏志 )倭人在帯方東南大海之中依山嶋為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国
(後漢書)倭在韓東南大海中依山嶋為居 凡百余國 自武帝滅朝鮮 使譯通於漢者三十許國

(魏志 )対応する文なし。)

(後漢書)國皆称王世世傳統其大倭王居邪馬臺國

(魏志 )自郡至女王国万二千余里
(後漢書)楽浪郡徼去其國萬二千里

(魏志 )到其北岸狗邪韓国七千余里
(後漢書)去其西北界狗邪韓國七千余里

(魏志 )計其道里当在会稽東冶之東
(後漢書)其地大較在稽東冶之東

(魏志 )種禾稲紵麻蚕桑緝績出細紵縑緜
(後漢書)土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為縑布

(魏志 )出真珠青玉其山有丹
(後漢書)出白珠青玉其山有丹

(魏志 )倭地温暖冬夏食生菜
(後漢書)土氣温腝冬夏生菜茹

(魏志 )其地無牛馬虎豹羊鵲
(後漢書)無牛馬虎豹羊鵲

(魏志 )兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃
(後漢書)其兵有矛楯木弓竹矢 或以骨為鏃

(魏志 )諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差
(後漢書)男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差

(魏志 )其衣横幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如単被穿其中央貫頭衣之
(後漢書)其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之

(魏志 )以朱丹塗其身体如中国用粉也。
(後漢書)並以丹朱坋身如中國之用粉也

(魏志 )有屋室 父母兄弟臥息異処
(後漢書)有城屋室 父母兄弟異處 
 
(魏志 )其会同坐起父子男女無別
(後漢書)唯会同男女無別

(魏志 )食飲用邊豆手食
(後漢書)食飲以手而用籩豆

(魏志 )其人寿考或百年或八九十年
(後漢書)多壽考至百余歳者甚衆

(魏志 )其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不忌
(後漢書)國多女子大人皆有四五妻其余或兩或三 女人不淫不妬忌

(魏志 )不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
(後漢書)又俗不盗竊少爭訟 犯法者没其妻子 重者滅其門族

(魏志 )始死停喪十余日 当時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒
(後漢書)其死停喪十余日 家人哭泣不進酒食 而等類就歌舞為楽

(魏志 )靱輒灼骨而卜以占吉凶
(後漢書)灼骨以卜用決吉凶

(魏志 )其行来渡海中国詣恒使 一人不梳頭不去幾蝨衣服垢汚不肉食不近婦人如喪人名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便欲殺之 謂其持衰謹
(後漢書)行來度海令 一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰 若在塗吉利則雇以財物 如病疾遭害 以為持 衰 不謹便共殺之

(魏志 )対応する文なし

(後漢書)建武中元二年倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

(魏志 )倭国乱相攻伐歴年
(後漢書)桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主

(魏志 )乃共立一女子為王 名曰卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫婿
(後漢書)有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王

(魏志 )有男弟佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給飲食伝辞出入 居処宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛
(後漢書)侍婢千人少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻

(魏志 )女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種
(後漢書)自女王國東度海千余里 至狗奴國 雖皆倭種而不屬女王

(魏志 )又有株儒国在其南人長三四尺 去女王四千余里
(後漢書)自女王國南四千余里至侏儒國 人長三四尺

(魏志 )又有裸国 黒歯国 復在其東南 船行一年可至
(後漢書)自侏儒東南船行一年 至裸國黒齒國 使譯所傳極於此矣

(魏志 )対応する文なし

(後漢書)会稽海外有東□(魚+是)人 分二十國 又有夷洲壇(三スイヘン)洲
傳言秦始皇遣方士徐福将 童男女數千人入海求蓬莱神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至稽市  会稽東冶縣人有入海行遭風流移至洲者 所在絶遠不可往來

 


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  2. 『古事記』天皇没年干支を中国史書で検証
 

第2章 朝鮮史書と対応する四世紀

  1. 神功皇后三韓征伐は史実か?
  2. 袴狭遺跡出土船団図
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  4. 早められた新羅出兵の年次
  5. 新羅本記に見る倭侵攻記事
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  7. 疑問の多い応神の没年干支
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第3章 卑弥呼と台与の時代

  1. 欠史八代天皇は実在した
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  5. 266年に九代開化天皇は王位に在った

第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史

  1. 『後漢書』倭伝は『魏志倭人伝』からの派生ではない
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  3. 大和朝廷の始まり
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