袴狭遺跡出土船団図

 北部九州に残る神功皇后新羅侵攻の伝承から、侵攻の経路を想像するとしても、はたして四世紀代に、朝鮮半島で軍事行動を起こせるような、兵力を渡海させる能力があったか疑問が残る。これに関し興味深い出土品がある。

兵庫県出石郡出石(いずし)町の袴狭(はかざ)遺跡から出土した板に四世紀代のものと思われる船団が線刻されている。

 

袴狭遺跡船団図

袴狭遺跡出土船団図

 巨大船を中心として、十五隻の船が、線刻画でリアルに描かれている。
舟はいずれも、舳(とも)先が高くせり上がった、外洋船である。船団を組んで航行する様子を描いたと思われる。
四世紀代であれば、漁船団や、商船団であるはずはない。軍船団以外考えられない。これだけリアルな描写は、想像で描いたものではない。実際に船団を見た者が描いている。おそらくこの船団に加わった者であろう。そのことを裏付ける系図がある。


 丹波と呼ばれる京都府宮津市籠(この)神社の宮司家に伝わった、海部直等氏系図(国宝勘注系図)である。その系図の十八世孫建振熊宿禰の注記は次のように記す。


「息長足姫皇后(神功皇后)新羅国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(船頭)と為し、以って仕え奉る」とする。

丹波、但馬、若狭の海人達が、新羅に出兵したのである。
袴狭遺跡の出石町は但馬と呼ばれた地域である。
私は、袴狭(はかざ)遺跡出土の外洋船団図は、建振熊が率いた海人たちが自分たちの活躍を描いた図と想像する。渡海作戦は、この図に描かれたような船団で行われたのである。
 


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