大和朝廷史年表
五世紀は、『古事記』の天皇没年干支と『宋書』などの中国史書との対応関係から、天皇の在位年代を明らかにする。
四世紀後半は朝鮮史書『三国史記』の年次から、『日本書紀』の年次を明らかにする。この年次を元に『古事記』の一四代仲哀没年を362年として、一三代成務没年を355年、一〇代崇神の没年を318年とする。 三世紀は海部氏系図、尾張氏系図、和邇氏系図、などの系譜伝承から、『魏志倭人伝』の卑弥呼や台与を明らかにした。そのことによって欠史八代とされ、その実在が疑われる六代孝安天皇、九代開化天皇の在位年代を明らかになる。 これにより欠史八代あたりの年代が明らかとなった。
二世紀は『魏志倭人伝』と『後漢書』倭伝の記事から、大和朝廷の初代とされる神武の年代を明らかにする。
大和朝廷の成立は、『後漢書』倭伝が記す、西暦107年の倭国王朝貢の直前というのが私の結論である。
以下に大まかな年表を示す。
西暦年 | 国外史料 | 日本の史書、系譜等 |
57 | 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀 | |
107 | 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 | 初代神武 大和朝廷はこの直前に興る |
倭国大乱の前七八十年男王の時代があった | 初代神武から五代孝昭までの期間 | |
霊帝光和中(178から184年) 倭国大乱(梁書)倭国乱の後卑弥呼擁立 | ||
239 | 景初二年 倭女王遣使、『日本書紀』は景初三年とする。 | 『勘注系図』海部氏系図、『先代旧事本紀』尾張氏系譜、國玉神社大久保氏系譜から、卑弥呼は宇那比姫命で、六代孝安天皇が、卑弥呼の政治を補佐した男弟と判明する |
240 | 正始元年 梯儁らを倭国に遣わす | |
243 | 正始四年 倭王伊声耆等を遣わす | |
245 | 正始六年 難升米に黃幢を賜う | |
247 | 正始八年 狗奴国との戦いの様を説く | |
266 | 台与西晋に朝貢、また立っ男王、並びて受ける中国爵名(梁書、通典) | 『勘注系図』と『古事記』から、台与=天豊姫=竹野姫=開化妃であるから、男王は九代開化であることが判明 |
318 | ||
355 | 『古事記』成務没年干支乙卯(きのとう)355年 『日本書紀』成務六十年 | |
362 | 『古事記』仲哀没年壬戌362年 『日本書紀』成務六十年 | |
『日本書紀』神功三九年、四〇年、四三年を、魏志の年次239年、240年、244年に合わせる | ||
363 | 倭兵が大挙して侵入してきた 。新羅本紀は364年とするが363年 | 新羅出兵の翌年神功摂政元年とするが、新羅出兵の年を仲哀が亡くなった年とするから、仲哀没362年の翌年。この時紀伊で363年6月に起きた日食を見る。 |
364 | 『日本書紀』甲子(364年)久氐が倭との接触を求め卓淳国を訪れる | |
366 | 『日本書紀』神功四六年 斯摩宿禰は従者爾波移を百済に赴かせ百済との接触が成る | |
369 | 『日本書紀』神功四十九年 百済との同盟が成る | |
371 | 百済は高句麗の平壌に攻め込み故国王を戦死させる(百済本紀) | 『日本書紀』五一年 千熊長彦を久氐に副えて百済に遣わす |
372 | 石上神宮出土七支刀 | 『日本書紀』神功五二年 久氐達が七支刀と七子鏡を献上する。 |
375 | 近肖古王没、近仇首王が王位に就く(百済本紀) | 『日本書紀』神功五五年 百済の肖古王が没した |
376 | 『日本書紀』神功五六年 百済の王子貴須が王にたった | |
382 | 『日本書紀』神功六二年 (百済記はいう)壬午(382年)沙至比跪を遣わし新羅を撃つ | |
384 | 近仇首王 没(百済本紀) | 『日本書紀』神功六四年 百済貴須王が没し王子の枕流(とむる)王が位に就く |
385 | 枕流王 没(百済本紀) | 『日本書紀』神功六五年 百済枕流王が没し辰斯が王位に就く |
389 | 『日本書紀』神功六九年 神功没、太年己丑(つちのとうし) | |
390 | 『日本書紀』応神元年 太年庚寅(かのえとら) | |
391 | 好太王碑に見る倭の侵攻 | 『日本書紀』応神三年の記事で、392年帰国したとする |
392 | 王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。(百済本紀) | 『日本書紀』応神三年 紀角宿禰、達が出兵し百済の阿花王を立て、392年に帰国する。 |
397 | 阿莘王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。 | 『日本書紀』応神八年 (百済記はいう)阿花王が立って貴国に無礼であった。王子直支を天朝に遣わし先王の好を修む |
405 | 腆支太子は倭国において阿莘王の訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。 | 『日本書紀』応神十六年 百済阿花王が没す直支王に王位を継がせる |
411 | 『日本書紀』応神二二年 吉備国造の記事 『国造本紀』にも同様の記事在り | |
412 | この年次以降朝鮮史書との対応が取れなくなる、応神没年はこのあたり | |
413 | 東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条)、 | 仁徳 |
安帝の時、倭王賛あり(梁書諸夷伝倭条) | 仁徳 | |
421 | 倭讃、萬里貢を修む(宋書倭国伝) | 仁徳 |
425 | 讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず。(宋書倭国伝) | 仁徳 |
427 | 仁徳没丁卯(427) | |
430 | 倭国王、遣使して方物を献ず(宋書文帝紀) | 履中 |
432 | 『古事記』履中没壬申(432) | |
436 | 讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(宋書倭国伝) | 反正 |
『古事記』反正没丁丑(437) | ||
443 | 倭国王済、遣使奉献す。また以って安東将軍倭国王と為す(宋書倭国伝) | 允恭 |
451 | 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとのごとく(宋書倭国伝) | 允恭 |
『古事記』允恭没(454) | ||
460 | 倭国遣使して方物を献ず。(宋書孝武帝紀) | 安康 |
462 | 済死し、世子興遣使貢献す。「宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とすべし 」(宋書倭国伝) |
安康 |
477 | 倭国遣使方物を献ず。(宋書順帝紀) | 安康 |
478 | 興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。 | 雄略 |
武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀) | ||
479 | 倭王武を鎮東大将軍とす。(南斉書東南夷伝倭国条) | 雄略 |
489 | 『古事記』雄略没己巳(489) | |
502 | 倭王武を征東将軍とす。(梁書武帝紀) | 武烈。雄略は489年に没しているのでこの武は雄略ではない。 |
おわりに
日本という国は、今日に続く世界最長の国家である。
1900年の歴史の中で、幾たびか存亡の危機に立たされた。だが幸いにも今日も続いている。奇跡に近い、そのことに誇りと希望を持ちたいと思う。
日本建国史 完
第2部 卑弥呼の王宮と墓
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第1部 大和朝廷史
第1章 中国史書に見る五世紀史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
- 神功皇后三韓征伐は史実か?
- 袴狭遺跡出土船団図
- 新羅侵攻は仲哀没年の翌年
- 早められた新羅出兵の年次
- 新羅本記に見る倭侵攻記事
- 日食が証明する新羅出兵の年次
- 疑問の多い応神の没年干支
- 応神天皇没年が出土遺物で解けた
第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史
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