新羅本紀に見る倭侵攻記事
朝鮮史書『三国史記』新羅本紀に、次のような興味深い記述を見る。
奈勿尼師今(なふつにしきん)九年四月(三国史記の王暦によると西暦364年の4月となる。)
『倭兵、大いに至る。王これを聞き、恐らくは敵(あた)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣(ころも)を衣(き)せ、兵を持(じ)せしめて、吐含山(とがんさん)の下に列べ立て、勇士一千を斧けん(山+見)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃(たの)み直進す。伏せるを発して其の不意を撃(う)つ。倭人大いに敗走す。追撃して之を殺し幾(ほとん)ど尽く。』
慶州東南郊外、吐含山の山麓あたりに、草の人形を立て、倭軍を欺き、防戦したとするのである。
私は、この新羅本紀に記される倭の侵攻と、『日本書紀』の新羅出兵は同一の戦役と考える。
だが『日本書紀』では先に述べたように仲哀没年の翌年四月である。仲哀の没年を362年とすれば、新羅侵攻は363年となる。
一方新羅本紀の奈勿尼師今、九年四月は、三国史記の王歴に従う限り364年四月である。1年の差がある。
しかしながら『三国史記』の王歴には、このあたり1年の誤りがある。
三国史記王歴年表によると、好太王(こうたいおう)元年を、壬辰(みずのえたつ)で392年とする。ところうが、好太王碑文(こうたいおうひぶん)によれば、好太王元年は、辛卯(かのとう)の年で391年である。1年の差がある。
広開土王碑文とは、かっての高句麗の都、現在の中国吉林省集安に、高句麗第19代の国王、好太王の功績を顕彰して、息子の長寿王が建てた、高さ6メートルにおよぶ石碑である。
この碑文によるかぎり、好太王元年(永楽元年)は、辛卯の年で西暦391年である。石碑の建立は414年で、年次の信頼性は『三国史記』年表より、はるかに高い。
このことから『三国史記』の四世紀半ばから五世紀あたり、王暦年次には一年の違いがある。この違いが単純な誤りなのか、あるいは王歴の数え方又は、用いられた暦法の違いなのか判断が付きかねるが、同じく朝鮮史書『三国遺事』などとの間にも1年の違いのある記事が存在する。
従って奈勿尼師今(奈勿王)九年『倭兵、大いに至る。・・・』の戦役は、西暦364年ではなく、363年4月と考える。ここに仲哀没年干支から推定される神功の新羅侵攻と、『三国史記』新羅本紀に見る倭侵攻記事の年次と月が一致する。
神功の新羅侵攻は363年四月であり、これが『日本書紀』年次の一つの定点となる。
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第1部 大和朝廷史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
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第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史