大和朝廷の始まり
『魏志倭人伝』と『後漢書』倭伝の社会、風俗、自然、産物などについいての記述は、単語の類似性から同じ原典から派生したものであることが解る。
この二つの史書は共に、倭国の歴史について記す。両者を合成することによって、倭国の歴史をより鮮明に描き出すことができる。そ二つの史書は次のように記す。
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬【『後漢書』倭伝】
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見【『後漢書』倭伝】
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王【魏志倭人伝』】
桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主【『後漢書』倭伝】
建武中元二年の朝貢国は、倭の奴(な)という国で倭国ではない。
安帝永初元年の朝貢国は、倭国王とするから倭を代表する国である。そして『魏志倭人伝』は、「その国もとは男子をもって王と為す、住(すむこと)七八十年、倭国乱」と続ける。倭国乱の起こる前まで、男子の王の時代が七八十年続いていたとする。
『後漢書』倭伝は倭国乱を桓霊の間とする。桓霊の間とは桓帝と霊帝の間で146年 から189年の事とされる。また『梁書』は「霊帝光和年中」すなわち178年から184年の事とする。『梁書』の記述に疑問を持つ論者もあるが、『梁書』が、何の根拠もなくこの記述を成したとも思われないので有用な情報であろう。
倭国乱とはおおよそ二世紀の後半、中ごろに起きた戦乱である。この戦乱の七八十年前に、男王の時代が始まる。それは100年前後に始まったことになる。すると107年、後漢に朝貢した倭国王と一致する。
107年の朝貢に当たっての貢物は、生口160人である。生口とは戦争捕虜などの奴隷とされる。卑弥呼朝貢の生口は、男女合わせて10人である。倭国王の生口は、とてつもない数である。逃亡や反乱の恐れのある、これだけの生口を引き連れての遣使は、極めて大規模な遣使である。単なる中国王朝への挨拶ではない。
その朝貢は、倭国王が、この地域の覇者であることを、中国王朝に認めてもらうための朝貢であつたと考える。
この倭国王こそが、大和朝廷を樹立した最初の王である。それは『日本書紀』が初代とする神武に他ならない。
したがって、大和朝廷は、この107年の朝貢の直前に興ったのである。
私は、『魏志倭人伝』の倭国大乱の前に男王の時代が七八十年在ったという記述は、107年の倭国王が倭国の初代であるという認識に基づくものと考える。
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第1部 大和朝廷史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
- 神功皇后三韓征伐は史実か?
- 袴狭遺跡出土船団図
- 新羅侵攻は仲哀没年の翌年
- 早められた新羅出兵の年次
- 新羅本記に見る倭侵攻記事
- 日食が証明する新羅出兵の年次
- 疑問の多い応神の没年干支
- 応神天皇没年が出土遺物で解けた
第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史
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