266年に九代開化天皇は王位に在った
266年、西晋に朝貢した倭の女王がある。この女王は台与である。この時一緒に中国の爵位を受けた男王がある。
二つの中国史書は次のように記す。
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
801年成立の『通典(つうてん)』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。
台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとする。
問題はこの男王が誰かということである。
結論を言えば、この男王は『日本書紀』が九代開化天皇とする人物である。なぜなら台与は、天豊姫という女性で、竹野姫でもある。竹野姫は『日本書紀』が九代開化の妃とする女性である。したがってこの男王は開化に他ならない。
開化は266年王位に在ったのである。
このことから十代崇神の在位年代も明らかになる。『古事記』は崇神の没年を戊寅(つちのえとら)とする。ところうが、戊寅を318年とするか、258年とするかで見解が分かれる。だが266年に九代開化は在位している。開化の次の天皇とされる崇神の没年が、258年となることはない。崇神没年は318年である。
ここに欠史八代の孝安と開化の二人の在位年代が、明らかになる。孝安は卑弥呼時代で三世紀前半。開化は266年に王位に在った。そして崇神は三世紀末から、四世紀初頭に在位していた天皇となる。
ここでは、このページに関係あるメッセージのみお願いします。
反論、批判、感想など何でも結構ですが、私の論拠や論理、主張に対してのみお願いします。関係ないメッセージは削除します。
第1部 大和朝廷史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
- 神功皇后三韓征伐は史実か?
- 袴狭遺跡出土船団図
- 新羅侵攻は仲哀没年の翌年
- 早められた新羅出兵の年次
- 新羅本記に見る倭侵攻記事
- 日食が証明する新羅出兵の年次
- 疑問の多い応神の没年干支
- 応神天皇没年が出土遺物で解けた
第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史
著書