新羅侵攻は仲哀没年の翌年
『古事記』の天皇没年干支四世紀代の検証を進める。
古事記は、仲哀没年を壬戌(みずのえいぬ)とする。これを362年と仮定する。
『日本書紀』は二月に仲哀が没し、その年の九月に出兵の命令を出し、十月に対馬北端の鰐浦を出港したとする。しかしこれはあり得ない時期である。
朝鮮史書『三国史記』の倭侵攻の時期を見てみる。次のグラフは倭の侵攻時期を月別に表したものである。すべて春から夏にかけてである。数字は『三国史記』に見る年次である。
対馬海峡は冬場北西の風が吹き海が荒れる。また秋は台風に合う可能性がある。渡海して軍事行動を起こすには適さない。
『日本書紀』は神功が松浦県に到着し玉島の里の小河でアユ釣りをしたというエピソードを記す。仲哀が没したのが二月で、同年の四月初めとする。仲哀が没した直後に佐賀県の松浦まで出かけることはない。翌年の四月のことである。地元に残る伝承などでも新羅出兵の途上とする。
したがって新羅出兵は363年四月の事である。
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第1部 大和朝廷史
第1章 中国史書に見る五世紀史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
- 神功皇后三韓征伐は史実か?
- 袴狭遺跡出土船団図
- 新羅侵攻は仲哀没年の翌年
- 早められた新羅出兵の年次
- 新羅本記に見る倭侵攻記事
- 日食が証明する新羅出兵の年次
- 疑問の多い応神の没年干支
- 応神天皇没年が出土遺物で解けた
第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史