『古事記』天皇没年干支を中国史書で検証
中国史書には『晋書』の266年『倭人來獻方物』を最後に、四世紀代の倭についての記述は見当たらない。したがって四世紀代は空白の四世紀などと云われることがある。
ところが五世紀代になると『晋書』、『宋書』、『梁書』、『南斉書』などに中国王朝に朝貢した倭王の記述をみる。 一般に倭の五王と称される記述である。
『古事記』の天皇没年干支と中国史書が記す、倭王朝貢記事との比較によって、『古事記』の天皇没年干支を検証する。
同色の塗りつぶしは中国史書に対応すると考える、『古事記』と『日本書紀』の天皇
古事記の没年干支を正しいとすれば『宋書』に記述された讃・珍・済・興・武は、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。
結論として、古事記の没年干支が正しいとする仮説に大きな破綻はない。しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。
それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
『元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(宋書倭国伝)』すなわち珍を讃の弟とする記述である。
讃を仁徳、珍を反正とすると、宋書倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。
反正は履中の弟で讃すなわち仁徳の弟ではない。仁徳とは親子の関係である。
したがってこの矛盾を、珍(反正)は前王履中の弟という説明を、宋の官吏が誤って理解し、讃(仁徳)の弟と解釈したとでもする必要がある。
また王の名が記されていない、430年の倭国王は履中となる。次いで460年の遣使は安康、477の遣使は雄略となる。
また(471)埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた銘文の、辛亥年を471年、獲加多支鹵大王を雄略として、昇明二年(478)の武を雄略とすれば、王名の明示されていない、477年遣使の倭王は、雄略以外ありえない。
更に興味深いのは『梁書』の次の記述である。
『天監元年(502)倭王武を征東将軍とす。』(梁書武帝紀)、
この記述について、梁が前王朝の君臣関係をそのまま引き継いだもので、この年次に、武による遣使があったわけではないとする説がある。
しかし古事記の天皇没年を正しいとするかぎり、502年には雄略は生存していない。中国王朝が、在位の定かでない王に、爵号を与えるような、ずさんな除授を行なったとは思われない。
該当が推測されるのは武烈である。私は武烈による梁への遣使が、実際に行われたと考える。
『宋書』の武と、『梁書』の武は雄略と武烈という、異なる王の遣使である可能性が高い。
502年の梁書の遣使までを一連の歴史として捉えるのであれば、413年から502年の間に遣使した倭王は七人となる。
古事記の天皇没年干支を正しいとした場合、中国史書との間に若干の齟齬(そご)をきたすが、決定的な破綻はない。
それに比べ、日本書紀の年次を正しいとすると、説明のつかない破綻をきたす。
日本書紀によると413年から479年の間の天皇は、允恭・安康・雄略の三名である。中国史書の五名との対応がとれなくなる。
また、421年の讃、436年の珍、443年の済という三人の遣使に対し、日本書紀のこの期間に該当する天皇は、411年から453年まで在位したとする允恭一人である。允恭の没年については古事記が454年、日本書紀が453年と1年の違いしかない。在位年期間が少しでも狂うと、中国史書の遣使年次との間に整合性が得られないのである。
この点からも古事記の天皇没年干支は、ほぼ正しい情報を伝えると考えられる。
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第1部 大和朝廷史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
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第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史