日食が証明する新羅出兵の年次
皆さんは、私が主張する新羅出兵の年次について疑問を持たれるかもしれない。私が『日本書紀』の出兵時期や、『三国史記』の王歴を、自分の結論に合うように操作したのであると。だがここに、新羅出兵の年次が363年の事であるとする、天文学的な裏付がある。
『日本書紀』によると、神功は新羅を討ったその年、大和に戻る前に一時紀伊に身を寄せる。和歌山県、紀の川市小竹の宮(おしののみや)現在の志野神社で日食を体験する。
『日本書紀』は「昼は夜のように暗く」とする。『日本書紀』に記される日食の記録である。
今日の天文計算によれば、363年6月27日に皆既日食が起きている。この日食は紀元後二番目に長い皆既日食で、7分以上続いたとされる。神功たちはこの日食を体験したのである。
それは新羅出兵の二ヵ月後のことである。
このことから、新羅出兵が363年の四月の事であることが証明される。したがって仲哀没年干支、壬戌(みずのえいぬ)は、新羅出兵の前年で362年である。この年次が、『日本書紀』四世紀代の年次を考える定点となる。
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第1章 中国史書に見る五世紀史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
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第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史