疑問の多い応神の没年干支

 『古事記』天皇没年干支で、疑問のあるのは、応神の甲午(きのえうま)である。甲午は394年となるが、神功が没した389年からでは4年の治世でしかない。また応神が生まれたとされる新羅侵攻の年363年から数えれば応神は31歳で亡くなったことになる。しかしながら応神は多くの妃を娶り20人子が有ったとされる。また『日本書紀』の応神朝の記述は、394年以降も続く。しかも応神紀の年次は、部分的に三国史記百済本紀と1対1の対応関係がある。『日本書紀』の年次を干支二運すなわち120年新しくすると、百済本紀の年次と一致する。応神紀の年次は現在の暦の1年として設定されている。


『日本書紀』の応神二二年の記事は『先代旧事本紀』国造本紀の記事と対応する。御友別(みともわけ)の子供や兄弟が、吉備周辺の県に封じられたとする。これは国造本記でも応神朝の事とする。このあたりまで『日本書紀』の年次は朝鮮史書『三国史記』と1対1の対応関係が認められ、応神二二年は411年となる。
ところが次の応神二五年の記事から、『三国史記』の記事と年次が合わなくなる。『日本書紀』は百済の直支王(ときおう)が没し、子の久爾辛(くにしん)が王となったとする。『日本書紀』の年次からは414年となるが、三国史記ではこの年次は420年である。


『晋書』安帝紀に見る413年朝貢の倭国王、讃を仁徳とする。この朝貢は仁徳が王位に就いた直後の朝貢であろう。したがって413年には応神朝は終わっている。411年又は412年までが応神朝で、413年から仁徳朝が始まると考える。
『古事記』天皇没年干支で唯一疑問を持つのがこの応神没年甲午(きのえうま)である。
この応神没年干支以外、『古事記』の天皇没年干支は史実を伝えると考える。


ここでは、このページに関係あるメッセージのみお願いします。

反論、批判、感想など何でも結構ですが、私の論拠や論理、主張に対してのみお願いします。関係ないメッセージは削除します。

コメント欄を読み込み中