神功皇后三韓征伐は史実か?

 『日本書紀』は一四代仲哀天皇が没した年の事として、仲哀の皇后神功の新羅出兵を詳しく記す。
後に三韓征伐と称される大和朝廷による朝鮮半島への侵攻記事である。今『古事記』の仲哀没年干支、壬戌(みずのえいぬ)を362年の事と仮定する。

大和朝廷による新羅侵攻を裏付ける四世紀代の遺跡や出土遺物がある。その一つが沖ノ島の祭祀遺跡である。

神功皇后の新羅出兵の伝承によれば、福岡県福岡市の博多湾に集結した船団は、佐賀県の松浦半島を経由し、壱岐、対馬を経て朝鮮半島を目指したとする。これは日本列島から朝鮮半島に渡る一般的な経路である。だがもう一つ別の経路がある。海北道(うみのきたみち)と称される、現在の福岡県福津市あたりから、沖ノ島を経由して対馬、あるいは直接朝鮮半島を目指す経路である。沖ノ島は宗像地方と称される福津市、宗像市の北60㎞の玄界灘に浮かぶ、周囲4㎞ほどの小島である。

沖ノ島祭祀遺跡


この福津市に宮地嶽神社という神社がある。この宮地嶽神社の創建は神功皇后新羅出兵の伝承と深くかかわる。
宮地嶽神社の祭神として祭られる、勝村、勝頼という人物が、新羅出兵にあたり、宮地嶽山頂で戦勝祈願を行い、帰国後戦勝報告を行ったとする。これが宮地嶽神社の始まりとされる。

沖ノ島には四世紀後半から九世紀にかけての祭祀跡が残る。島の存在は、「おいわずの島」として隠され、島の物は一木一草も持ち出すことが禁じられてきた。そのため、祭祀の状態が良く保たれてきた。

祭祀跡には大陸から持ち込まれた品物が、奉斎品として大量に残されていた。当時の日本列島では手に入れることができない豪華な品である。供えられた品物の多くは戦利品であろう。戦いの戦勝祈願と、戦勝報告が行われていたのである。大和朝廷が関わる国家規模の祭祀がうかがわれる。
その最初の祭祀跡は、は四世紀後半とされる。宮地嶽神社に伝わる新羅出兵と深くかかわると考える。
またこの沖ノ島の祭祀跡は、四世紀後半以降、大和朝廷が朝鮮半島と深く関わっていることを物語る。


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