男弟は六代孝安天皇

 静岡県磐田市国玉神社、宮司家の大久保氏は、古い時代の和邇氏(わにし)系譜を伝える。
そこに私が卑弥呼とする宇那比姫命が登場する。系譜は次のように記す。
「押媛命の母親、建田背命の妹宇那比姫命なり」とする。建田背命の妹とするから尾張氏系譜に登場する、宇那比姫命で間違いない。
押媛命は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の子である。したがって宇那比姫命と天足彦国押人命は夫婦である。

男弟

『魏志倭人伝』は卑弥呼について「年長大夫婿なし」とする。私は長い間、卑弥呼は生涯独身の女性と思っていた。だが卑弥呼には、夫も子孫も有ったのである。魏の使者が邪馬台国を訪れた240年の時点では、夫はすでに亡くなっていたのである。

卑弥呼には子孫がある。詳しくはこちら

東大寺山古墳から出土した卑弥呼の遺品

天足彦国押人命は五代孝昭天皇と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の子である。弟は倭足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)すなわち、六代孝安天皇である。したがって孝安は宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は「男弟有りて佐(たすけて)て国を治」とする。卑弥呼の政治を補佐した「男弟」が有ったことを伝える。宇那比姫命には六人の兄はあるが、実の弟はない。弟に該当するのは、義理の弟孝安である。孝安天皇こそ「男弟」に他ならない。
こののことによって、邪馬台国と大和朝廷の関係が明らかになる。
更に欠史八代として、その実在が疑われる孝安天皇の活躍年代が明らかになる。卑弥呼は二世紀の末、王位に擁立され、三世紀の中ごろ亡くなっている。孝安天皇は三世紀前半の人である。


ここでは、このページに関係あるメッセージのみお願いします。

反論、批判、感想など何でも結構ですが、私の論拠や論理、主張に対してのみお願いします。関係ないメッセージは削除します。

コメント欄を読み込み中