早められた新羅出兵の年次
『日本書紀』は応神が生まれたのは、仲哀が亡くなった日の前日から数えて、十ヶ月と十日後の事とする。我国で俗説として信じられている妊娠期間である。
応神は仲哀の子ではない。大阪府住吉神社の住吉大社神代記は次のように記す「是に皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすといふ)」応神は住吉大社の大神と称せられる人物の間に生まれた子である。大神とはだれかについては別の機会に触れる。
この事は『日本書紀』の編纂者たちも知っている。だが天皇家の男系の血筋を引く者のみが、天皇になる資格を有すという建前上、応神は仲哀の子と主張しなければならなかった。天皇家の血筋でない大神の子とする訳にはいかないのである。
一方応神は新羅出兵の後に生まれたとする。新羅出兵を応神が生まれる前とするために、出兵の時期を半年ほど早めたのである。
『日本書紀』は、神功の出産の時期が新羅出兵の時期に重なったので、神功は腰に石を挿し込み出産を遅らせたとする。怪しげな話である。出産を遅らせたとしても、十ヶ月と十日以降にする訳にはいかなかったのである。もし十ヶ月と十日以降としたのでは、仲哀の子であることを疑われることになる。
応神は新羅戦役の後に生まれている。応神を仲哀の子と主張するためには、新羅出兵は十ヶ月と十日以前でなければならない。そのため渡海して軍事行動を起こすには極めて不適切な時期を設定している。『日本書紀』の編者も、そのことまでは想いが至らなかったのである。
少し話はずれるが、『日本書紀』は、神功が軍を率いて新羅出兵を行ったとする。だが、出産間近の身重女性が戦地へ赴くことなどあり得ない。戦地に赴いたのは神功の身代わりとなった男性である。
そのことを伺わせる記述が『日本書紀』にある。出陣に当たり神功は、みそぎをして髪を海水につける。すると髪は二つに分かれ、「みずら」という男の髪型になったとする。この時点で男子が、神功の身代わりとなるのである。
また玉島の小河でアユ釣りをしたとき、ことさらに、男にはアユが釣れても獲ることはできないと、アユ釣りをした人物は、女性であることを強調する。
神功が応神を生んだのは、現在の福岡県糟屋郡宇美町である。神功はそこに身を潜め応神を出産している。
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第1部 大和朝廷史
第2章 朝鮮史書と対応する四世紀
- 神功皇后三韓征伐は史実か?
- 袴狭遺跡出土船団図
- 新羅侵攻は仲哀没年の翌年
- 早められた新羅出兵の年次
- 新羅本記に見る倭侵攻記事
- 日食が証明する新羅出兵の年次
- 疑問の多い応神の没年干支
- 応神天皇没年が出土遺物で解けた
第3章 卑弥呼と台与の時代
第4章 『後漢書倭伝』に見る倭国の歴史
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