古墳の年代が確定した
問題はNo1墳丘の築造年代である。
写真はNo1の墳頂。窪地は盗掘穴。
かってNo1とNo2の古墳で地中レーダー探査を行なった。No1の墳丘の中心と思われる場所で、何かありそうなレーダの反応はなかった。石室のようなものは存在しない。
やや離れた場所で反応を見た。そこを試掘すると鉄鏃と鉄鉾が出土した。五世紀末頃の物で私が期待した年代のものではなかった。だが試掘したのは中心部ではない。この古墳が築造されたより後に埋葬された物であろう。
なぜなら、この墳丘の裾で次のような土器片を採取している。皿状の土器片で縁の部分が残存する。直径は5.5㎝くらい。食器としての実用品ではない。供献土器と称される、墓に供えられた土器である。主に前期の古墳から出土する。五世紀末の物ではない。またNo2の古墳からも同じような土器片が出土している。こちらの古墳の築造時期は、出土土器から三世紀中ごろとわかっている。この二つの古墳は、ほぼ同時代の築造と考える。
No1の墳丘裾で採取された供献土器。5世紀末の物ではない。
No2墳丘から出土した供献土器
2010年、墳丘の裾南側の崩落個所で採取した土器片がある。小片で私には土器の年代を確定できなかった。そこでChatGPTに尋ねた。
以下はChatGPTの回答である。
土器片の再推定(文様+出土地+時期)
1. 形式:弥生時代末~古墳時代初頭の移行期土器
文様は依然として**平行沈線文(へいこうちんせんもん)**で、弥生土器中~後期に広く見られるものです。
しかし、出土地が古墳盛り土周辺で、築造が3世紀中頃である点から、弥生土器の末期型あるいは初期古墳時代の「移行期土器」(弥生的特徴を持つ古墳時代土器)である可能性が高いです。
2. 土器の機能と種類(推定)
文様と厚みから見て、貯蔵用の壺型土器の胴部の破片である可能性。
表面処理が粗く、装飾性より実用性重視と見られます。
玉手山古墳が有する周辺の集落遺構に付随する日常土器の一部か、古墳築造時に使われた祭祀土器の可能性も視野に入ります。
3. 推定年代:弥生時代後期末~古墳時代初頭(約250~300年頃)
出土地の文脈(古墳に伴う)と文様の旧的特徴の共存から、**弥生土器の最末期(3世紀前半~中頃)**と判断されます。
まさに「弥生から古墳時代への過渡期」の考古学的証拠と見なせます。
この古墳は、卑弥呼が没した三世紀中ごろの築造と確定した。
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第2部 卑弥呼の王宮と墓
卑弥呼の王宮
- 卑弥呼の王宮は秋津嶋宮
- 秋津島宮はどこ
- 伝承の地から出土した特異な建物群
- 竪穴建物が方形区画施設を切り崩す
- 炭素年代による高床式建物の年代
- 多孔銅鏃という二世紀から三世紀の遺物
- 庶民の持ち物ではない装身具
- 広い範囲から持ち込まれた土器