玉手山は特別な場所

 延喜式という、平安時代中期に編纂された書物がある。それによると、孝安陵の広さを、兆域東西六町、南北六町とする。約650m四方である。これは玉手山全域の広さで、天皇陵の兆域としては、最大規模である。
孝安陵のみなら、これほどの広さは必要ない。兆域には他の古墳も含まれる。
延喜式の編者が卑弥呼の墓の存在を知っていたかは不明であるが、平安中期には、玉手山全域が特別な墓域として管理されている。


孝安が葬られたとする山に、卑弥呼の墓を見るのは偶然ではない。むしろ卑弥呼が葬られた山に、孝安も葬られたと理解すべきであろう。

またこの径百余歩に見える尾根が、秋津島宮伝承地の近くでなければ、私はそこを卑弥呼の墓などと言い出すことはなかった。

径百余歩の尾根

 

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ビデオ

実在する径百余歩卑弥呼の墓

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第3部 『魏志倭人伝』に登場する人物


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