玉手山は特別な場所
延喜式という、平安時代中期に編纂された書物がある。それによると、孝安陵の広さを、兆域東西六町、南北六町とする。約650m四方である。これは玉手山全域の広さで、天皇陵の兆域としては、最大規模である。
孝安陵のみなら、これほどの広さは必要ない。兆域には他の古墳も含まれる。
延喜式の編者が卑弥呼の墓の存在を知っていたかは不明であるが、平安中期には、玉手山全域が特別な墓域として管理されている。
孝安が葬られたとする山に、卑弥呼の墓を見るのは偶然ではない。むしろ卑弥呼が葬られた山に、孝安も葬られたと理解すべきであろう。
またこの径百余歩に見える尾根が、秋津島宮伝承地の近くでなければ、私はそこを卑弥呼の墓などと言い出すことはなかった。
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第3部 『魏志倭人伝』に登場する人物
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第2部 卑弥呼の王宮と墓
卑弥呼の王宮
- 卑弥呼の王宮は秋津嶋宮
- 秋津島宮はどこ
- 伝承の地から出土した特異な建物群
- 竪穴建物が方形区画施設を切り崩す
- 炭素年代による高床式建物の年代
- 多孔銅鏃という二世紀から三世紀の遺物
- 庶民の持ち物ではない装身具
- 広い範囲から持ち込まれた土器