秋津島宮はどこ
六代孝安天皇が卑弥呼の政治を補佐した男弟なら、卑弥呼の王宮は、孝安の宮とされる秋津嶋宮なのである。(日本書紀は秋津嶋宮・古事記は秋津島宮)
それでは秋津嶋宮は何処か。秋津嶋宮は「室(むろ)」の秋津嶋宮とする。室とは現在の奈良県御所市(ごせし)の南郊外である。
帝王編年紀という十四世紀に成立した書物がある。そこに秋津島宮の伝承地が記される。それによると「今掖上池南西田中也」とする。
現在掖上池という池は存在しないが、御所市玉手に満願寺というお寺がある。その前に大きな窪地が広がる。現在は霊園となるが、窪地の南側に「きれずみ」すなわち「切れ堤」という場所がある。かってここは、大きな池であり堤が切れて干上がったのである。ここが掖上池でる。
秋津嶋宮の伝承地を、この池の南西田圃の中とする。掖上池からの距離は不明であるが、室はこの掖上池より1㎞位離れた南西である。
更に林宗甫(はやしそうすけ)という、江戸時代の人が、著した「和州旧跡幽考(わしゅうきゅうせきれうこう)」という書物がある。それによると、秋津島宮の伝承地を「寺村より乾(いぬい)にして川の東」とする。寺村とは現在の御所市稲宿(いなど)である。
孝安の秋津島宮は、この寺村の乾(いぬい)、すなわち北西に在ったとする。また川とは葛城川のことであろう。川の近くは氾濫原となるので、あまり川の近くではない。
この二つの書物の伝承地から、おおよその場所が絞られる。掖上池の南西、で稲宿の北西。そして葛城川かからやや離れた東側の場所である。ここが室秋津島宮の伝承地である。
2009年から始まった、自動車道の建設に伴う事前発掘調査で、とんでもない遺構が出土したのである。
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第2部 卑弥呼の王宮と墓
卑弥呼の王宮
- 卑弥呼の王宮は秋津嶋宮
- 秋津島宮はどこ
- 伝承の地から出土した特異な建物群
- 竪穴建物が方形区画施設を切り崩す
- 炭素年代による高床式建物の年代
- 多孔銅鏃という二世紀から三世紀の遺物
- 庶民の持ち物ではない装身具
- 広い範囲から持ち込まれた土器
径百余歩卑弥呼の墓