広い範囲から持ち込まれた土器

 西日本の瀬戸内海沿岸や東海地方など広い範囲から持ちこまれた土器が出土する。

ここが王都の場所であることを物語る。

瀬戸内海地方土器

 

東海地方土器

 

有段広縁壺

 

 発掘調査に当たった橿考研の担当者は、遺構の特殊性から大和朝廷が営んだ遺構とする。

だが『日本書紀』で、この葛城地方が登場するのは、初代神武の時代や、二代綏靖の葛城高丘宮、五代孝昭の掖上池心宮、六代孝安の室秋津島宮などである。何れも十代崇神以前で、崇神時代を300年前後とすれば、何れも古墳時代前期より前である。

秋津という地名の由来は、神武が秋津の南にある国見山で国見をする。この時、周りを山々が取り囲む様子がトンボの交尾する様子に似ることからトンボの古い呼び名であるアキツと名付けたとされる。奈良盆地南部のこのあたりは、大和朝廷発祥の地であり、初期の大和朝廷の宮が営まれた場所でもある。卑弥呼の時代もここに宮が置かれたのである。

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秋津遺跡から出土した遺物


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