古墳の年代

 問題はNo1墳丘の築造年代である。

写真はNo1の墳頂。窪地は盗掘穴。

No1墳頂

かってNo1とNo2の古墳で地中レーダー探査を行なった。No1の墳丘の中心と思われる場所で、何かありそうなレーダの反応はなかった。石室のようなものは存在しない。

No1地中レーダ探査No1レーダ反応

やや離れた場所で反応を見た。そこを試掘すると鉄鏃と鉄鉾が出土した。五世紀末頃の物で私が期待した年代のものではなかった。だが試掘したのは中心部ではない。この古墳が築造されたより後に埋葬された物であろう。

鉄鉾

鉄鏃

なぜなら、この墳丘の裾で次のような土器片を採取している。皿状の土器片で縁の部分が残存する。直径は5.5㎝くらい。食器としての実用品ではない。供献土器と称される、墓に供えられた土器である。主に前期の古墳から出土する。五世紀末の物ではない。またNo2の古墳からも同じような土器片が出土している。こちらの古墳の築造時期は、出土土器から三世紀中ごろとわかっている。この二つの古墳は、ほぼ同時代の築造と考える。

No1の墳丘裾で採取された供献土器。5世紀末の物ではない。

No1供献土器

No2墳丘から出土した供献土器

供献土器

念のため警告する。

私が試掘を試みたのは、教育委員会が、ここは自然の尾根で古墳ではないとしたことによる。教育委員会の了承のもと行った。しかし私の発掘により、現在は古墳と認定され、発掘は一切許可されない。

後に、一部の不心得者が、私の説に触発され掘り返している。文化財保護法違反の犯罪者である。くれぐれも犯罪者として汚名を残すことのないよう警告する。スコップなどを持って、玉手山に入ると御所派出署に通告されます。

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