邪馬台国、4人の高官

『魏志倭人伝』には邪馬台国の四人の官の名前が記される。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮である。

四人の高官

 

伊支馬は「いしま」と読んで、倭氏の邇支倍(にしば)とする。邇支倍は倭国造(やまとのくにのみやつこ)という、大和朝廷のおひざもとの国造である。倭国造が邪馬台国の筆頭高官なのである。
また伊支馬(いしま)と邇支倍(にしば)の音はよく似る。

つぎの彌馬升は、「みまのすくね」と読んで物部氏の三見宿禰をあてる。「升」は「宿禰」に当てた表意文字であろう。普通三見宿禰は「みつみのすくね」と読むが彌馬は「みま」で「みまのすくね」の可能性が高い。
『先代旧事本紀』の物部氏系譜によれば、三見宿禰は「孝安天皇のおそば近くに仕えた」とする。卑弥呼の政治を補佐した男弟が孝安であるから、孝安に仕えたとする三見宿禰が彌馬升で間違いない。

つぎの彌馬獲支は「みまくち」と読んで「みなくち」であろう。物部氏の水口宿禰である。物部氏系譜によれば、弟の大矢口宿祢命と共に「孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした」とする。水口宿禰は孝安から孝霊時代にかけて高官の地位にあった人物である。

物部氏系譜によれば歴代の人物が、天皇の近くにあって高官の地位にある。この二人が邪馬台国の高官であることに不思議は無い。

最後の奴佳鞮は「ぬかて」と読んで、倭氏の邇支倍の子とする。一般に目にする、倭氏の系図では、邇支倍の子を飯手(いいて)とする。飯手を「ぬかて」とは読めないが「手」の字から飯手こそ「ぬかて」であると考える。どこかに飯手ではなく「ぬかて」とする系図が存在すると考える。

このように邪馬台国の高官は、倭氏と物部氏によって占められている。
したがって、倭国大乱は、この二大氏族の対立を中心にした戦乱である。
倭氏は、神武が大和朝廷を打ち立てたとき活躍した椎根津彦(しいねつひこ)に始まる。その功績で倭国造に任じられ大和朝廷を支えてきた有力氏族である。
一方物部氏は神武が、奈良盆地に侵攻した際、最初は神武と敵対するが同族ということで許され神武に帰順する。物部氏系譜によれば、大和朝廷成立後、歴代の人物が高官として天皇に仕えたとする。
 

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