台与は開化の妃とされる竹野媛

 『勘注系図』の建諸隅命の注記は次のように記す。

開化の御宇(御代・みよ)余社郡(よさのこおり)に竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いたとする。
建諸隅命の亦の名は、竹野別(たかのわけ)で竹野姫とは、この父親の名に由来する。また開化の御宇とするから竹野姫は開化時代の人である。
そして注目されるのは、建諸隅命の亦の名を、丹波縣主由碁理(ゆごり)とすることである。由碁理という名は『古事記』にも見る。『古事記』は「この天皇(開化)丹波大縣主由碁理の娘、竹野姫を娶る」とする。したがってこの竹野姫は『記紀』が伝える開化の妃とされる竹野媛(竹野比賣)である。
『魏志倭人伝』が伝える歳一三歳で、王位に就いた台与とは、天豊姫で、後に開化と一緒になった竹野姫でもある。

『日本書紀』は少し奇妙な記述を成す。開化紀の中で、「開化の皇后伊香色謎は、御間城入彦(崇神)を産んだ。これよりさき、丹波の竹野媛をいれて妃として、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を産んだ」とする。本来なら最初に娶った竹野姫が、皇后のはずである。『記紀』は崇神を、正当な王権の継承者とするため、その母親伊香色謎を皇后とし、竹野姫を妃とするのである。しかし竹野姫は単なる妃ではなく大和朝廷の最高権力者である。そのことを伺わせる中国史書がある。

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
801年成立の『通典(つうてん)』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。

台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとする。

台与が竹野姫なら、この男王は開化に他ならない。この朝貢の主体は女王である。『日本書紀』が開化の妃とする竹野姫は、単なる妃ではなく、大和朝廷の最高権力者なのである。