丹波は大和朝廷の重要な支配地

 建諸隅命は、丹波大縣主として丹波支配に当たる。建諸隅命は卑弥呼の甥であり、台与の父親でもある。なぜ王権の最有力者が、丹波支配に当たったのかである。

丹波は弥生中期から続く水晶加工製品の産地である。この水晶加工製品が倭国の重要な交易品であった。その証拠に台与が献上した品物の中に、生口(奴隷)と並んで白珠五千が記される。白珠とは水晶の小玉のことである。
この水晶加工品は、鉄素材入手のための主要な交易品である。丹波は大陸と交易を行い鉄素材を入手するための重要な窓口であった。そのため、王権の最有力者が、支配に当立ったのである。


最初丹波に赴いたのは、卑弥呼の一番上の兄、建田背命である。建田背命が、府を置いたとされるのは京丹後市久美浜町である。ここには、建田背命の館跡という伝承地が残る。

建田背命の館跡

建田背命館跡写真

この近くの矢田神社は、建田背命と建諸隅命を祭る。

建田背命に替わって丹波に赴いたのは卑弥呼の二番目の兄、建宇那比命(たけうなびのみこと)で、建諸隅命は、その子供である。建諸隅命が、府を置いたとされるのが現在の京都府京丹後市丹後町竹野(たかの)である。ここは竹野川の河口に広がる干潟が在ったとされる。建諸隅命の亦の名とされる、建日潟命、建日方命はこの干潟にちなむ名であろう。建田背命が府を置いた久美浜湾の奥も、建諸隅命が府を置いた竹野川の河口も、自然の良い港である。大陸との交易の窓口となる場所である。

京丹後市丹波町竹野