遣使に立った人たち

景初二年(景初三年、239年とされる)の遣使、難升米は「なしょめ」と読み、中臣氏(なかとみし)の梨迹臣(なしとみ)である。
中臣氏は神武が大和朝廷を樹立する前からの臣下で、王権内の最古参の氏族である。遣使の代表として景初二年(景初三年、239年とされる)魏に赴く。
父親は、伊香津臣(いかつおみ)。滋賀県長浜市木之本伊香具神社(いかごじんじゃ)の祭神として祭られる。

伊香具神社ー1.jpg

伊香具神社の伝承は、次のように伝える「吾天児屋根命の命を傳へて皇孫に侍従久しく宝器を守る。尚この地に止まりて永く属類を守るべしと」
後ほど詳しく述べるが、梨迹臣は、狗奴国と戦った人物でもある。狗奴国とは北陸地方に在った陸国(くがこく)で、長浜市木之本は、陸国(くがこく)と国境を接する軍事上の要衝の地である。ここで、北の陸国と対峙したのである。

また正始四年の伊聲耆は伊世理(いぜり)で梨迹臣の兄弟である。

中臣氏
景初三年、梨迹臣と共に遣使になった都市牛利とは由碁理(ゆごり)である。
由碁理は、卑弥呼の甥という王権の身内であるが、景初三年の時点では年が若く、次使として魏に赴く。
由碁理は、亦の名を建諸隅命(たけもろずみのみこと)とも云い、尾張氏の当主で、丹波の大縣主でもある。また卑弥呼の後に王位に擁立された台与の父親でもある。

建諸隅命

正始四年、掖邪狗と共に遣使した伊聲耆は「いせり」と読み中臣氏の伊世理(いぜり)である。伊世理は梨迹臣と兄弟であるが、異母兄弟と思われる。

同じく正始四年の遣使、掖邪狗を「わきやひこ」と読み稚押彦(わかおしひこ)とする。稚押彦は通称「わかひこ」と呼ばれていたと想像する。掖邪狗は「わかひこ」の音写。
稚押彦は卑弥呼と、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子で、現在の天理市櫟本(いちのもと)に、居を構える。東大寺山古墳はこの人の子孫の墓。その墓から、卑弥呼が公孫氏から受け取ったであろう、中平年号の刀が出土している。このことが稚押彦は卑弥呼の子である証拠となる。
正始四年と台与擁立後、二度に渡り魏へ遣使する。

 

正始八年の遣使、載斯烏越は「うつ・し・う・こ」と読み、物部氏の欝色雄(うつしお)とする。
当初私は、載斯と烏越の二人の人物かと思った。そのためにこの人物の特定が最も難しかった。載斯烏越は、欝色雄という一人の名前である。
妹の欝色謎命(うつしこめのみこと)が、八代孝元天皇の皇后。

欝色雄は穂積氏の祖であり、穂積氏は物部氏でもある。後で詳しく述べるが、卑弥呼の後に立った「男王」は孝元天皇である。これを擁立したのが欝色雄命で、孝元時代の大臣(おおみ)となる。
 

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