距離をどのようにして認識したか?

先に私は地理像を描いたのは倭国を実際に旅した人ではないとした。240年倭国を訪れた人物の報告書、あるいは紀行記などから地理像を推測したと考える。

『後漢書』倭伝には、楽浪郡から邪馬台国まで一万二千里、狗邪韓国から七千里とするが、経由地に至る距離や方位の記述は無い。范曄が見た資料にはこの記述は無かったのである。
一方、陳寿は、この部分を誰かが著した、二次資料によって書いている。おそらく陳寿に先行する魏についての歴史書であろう。

それではこの地理像はどのように描かれたかである。
距離については次のような推測が成り立つ。
報告書あるいは紀行記のようなものを参照して、その日付けから、区間の日数を知り、距離を推定したのである。
たとえば狗邪韓国を〇月〇日発つ。
対馬国を〇月○日に発つ。というような日付の記述から、この区間の日数を知る。そしてこの日数に、一日当たりの移動距離を掛けるのである。何時の時代でも、徒歩による一日の移動距離は、20㎞前後である。この時代の一里は400m強。したがって20㎞は五十里弱。陸行は、一日あたり五十里として日数を掛ける。


水行すなわち船は、推測の域を出ないが、徒歩の倍、百里位を用いたと考える。
したがって、狗邪韓国、対馬国、一支国 末蘆国間はそれぞれ千里で、この間をそれぞれ十日かけて移動したとすれば、十日×百里=千里となる。
末蘆国から伊都国は陸行五百里とする。この間を十日とすれば、十日×五十里=五百里
伊都国から奴国、不彌国も陸行百里とする。それぞれ二日くらいで、二日×五十里=百里とした。

距離の推定


しかしこの推定には大きな誤差が伴う。船による航海は天候によって大きく左右される。海が荒れれば天候の回復を待って移動しない。実際に移動した日数がわからなければ、まともな区間距離とはならない。
また伊都国は必ず立ち寄る場所である。末蘆国と伊都国の距離が、異常に大きいのは、伊都国に滞在した日数が含まれると考える。

不彌国以降は距離表記はなく、日数表記となる。

方位についてどのように認識したか私には解らない。ただ出発地から離れるほど、方位の狂いが大きくなるように見える。南の方に連なる不正確な地図を見ているように思う。
 

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