笠井新也の「邪馬台国は大和である」説

 大正から昭和初期に邪馬台国大和説を唱えた笠井新也という人がある。
大正11年発行 考古学雑誌12巻7号に、笠井新也は「邪馬台国は大和である」という論文を発表する。
古めかしい論文であるが、これまでの邪馬台国所在地論の中で、今でも次の2点に限れば、最も優れた論文と考える。

一つは、方位に一定のずれがあること。二つ目は、不彌国は次の「水行二十日」の出発点になる場所で、海沿いの場所でなければならない。したがってその場所は、津屋崎(現在の福岡県福津市)とすることである。
しかし聡明な氏にあっても、邪馬台国に至る最後の行程「陸行一月」の解釈を誤るのである。

笠井新也が指摘するように、邪馬台国大和説を唱える人は、九州から大和に向かうにあたって、瀬戸内海航路を想定する。瀬戸内海航路の終着点は、大阪湾であり、大阪湾から大和のどこに向かうにしても、歩いて一月もかかることはない。この「陸行一月」の解釈が出来ないとする。
そこで笠井新也は、日本海側、山陰を経由して福井県の敦賀あたりに上陸し、一箇月かけて大和に入ったとする。
論理的な笠井新也をもってしても、この難問が解けなかったのである。
最後の章で私の解釈を述べる。

それでは笠井新也の不彌国津屋崎説を紹介する。
 

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