笠井新也の「陸行一月」説
笠井新也は不彌国津屋崎説を述べた上で、邪馬台国の場所を確定するには、投馬国の位置が重要であるとして、次のように主張する。
以下、論文の一部抜粋
さて投馬国の位置は、魏志の文面によれば、不彌国(今日の博多より十里以内の地点)より南、水行三十日、陸行一箇月の地に當ること、而(しか)もその謂ふ所の「南」が実際に於いて東方をさしているものであることは既に論じた通りである。果たして然らば所謂(いわゆる)邪馬台国の位置が、大体(だいたい)に於いて畿内地方に當ることは何人も異論のないと所であろう。蓋(けだ)しそのその行程の距離より見て、乃至(または)その古代文化の状態より見て、実に恰當(かつこう)の地といわなければならない。而して更に一層具体的にこれを推定する時は、それが畿内中特に我が国最古の帝都地たる、而(しか)も地名までが一致する大和国に相當するものであることは想像に難くないのである。
ただし、この大和説の主張に於ける一の弱点は、「陸行一月」に対する解釈である。即ち邪馬台国を大和とし、これに達する交通路を、普通大和説の学者が考えて居るが如く瀬戸内海に取る時は、その邪馬台国に向かうべき上陸地点は、畿内の門戸として古代史上に著名な難波を以ってこれに擬定するのが最も適切で無ければならないのであるが、若し然(そう)であるとすると、難波から大和の何れの地に至るとしても、その日程は数日の外に出でないのであつて、陸行一箇月という魏志のの記事に合わないのである。
・・・中略・・・
(わたしは)従来の大和説の学者が普通に信じていた内海航路説に対して、別に日本海航路説を主張したいのである。更に一層具体的にいへば、不彌国以後の行程は山陰の近海を航し、出雲(或いは但馬地方)に寄泊し、更に東航して畿内地方の門戸として古代史上著名な敦賀に上陸し、越前・近江及び山城を経て、大和すなわち邪馬台国に入つたものであろうと余は考えるのである。
魏志にいはゆる「陸行一月」の疑問はここに初めて氷解したものといつても可かろうと思ふ。
笠井新也も最後の「陸行一月」の解釈に苦慮し、無理な仮説を立てる。瀬戸内海航路は、笠井新也の説に比べ、はるかに短距離であり、内海ゆえの安全性もある。この瀬戸内海航路を捨てて、日本海側のコースを選択する必然性はまったくない。無理な仮説である。
第4部 邪馬台国探しは、なぜ混乱したか