不彌国、津屋崎説

笠井新也「邪馬台国は大和である」
大正十一年発行「考古学雑誌12巻7号」掲載論文 

論文は
一 緒言、
二 邪馬台国推定の標準、
三 邪馬台国の比定
で構成される。ここでは、論文の三とする「邪馬台国の比定」から引用する。

私は極めて優れた論考であると考える。古めかしい論文であるがあえてその一部を抜粋し掲載する。

だが、さすがの笠井新也も、最後の「水行十日陸行一月」の解釈に苦慮するのである。

不彌国津屋崎説

 魏志の記事中、郡より奴国に至るまでの地理は既に学界に定説がある。即ち所謂(いわゆる)対馬・一支が我が九州北邊の二島を指すものであり、末蘆は肥前の松浦、伊都は筑前の怡土、奴は同じく儺縣(なのあがた)即ち博多付近相當するものであることは余もまた異論のない所である。

而(しこう)して不彌に就いては、内藤博士等は本居宣長の宇彌説に賛し、白鳥博士は大宰府附近を以って之に比定し、橋本増吉氏もまた白鳥説に賛している。然(しか)るに余はこれら諸氏と聊(いささ)か所見を異にして寧(むし)ろこれを以って、今日の津屋崎の附近に推定したいのである。
その理由は、第一不彌より「南投馬国二至ル水行二十日」という記事に依って考えると、その位置は必ずや水路の出発点でなければならない。されば宇彌・大宰府等の如き深く陸地に入り込んだ地に之を比定するよりは、やはり海岸の舟楫(しゅうしゅう・船と舵)の便ある地とするのが妥當である。

 

第二、末蘆著陸後の魏志の方位は、伊都をを経て奴国に至るまで、いつも東北を以って、東南と記している。さればその謂う所の東は正に北を指すものであり、その謂う所の南は正に東を指すものと見なければならない。果たして然(しか)らば、奴国より「東行不彌国二至ル」のであるから、不彌国は儺縣即ち今日の博多より北方に之を求めなければならない。而してその距離百里という点から之を求めると、結局今日の津屋崎附近に落着せざるを得ないのである。

若し強いて地名の一致を求めるなら、津屋崎の南二十数町の地に福間という地がある。不彌と福間は語御が相類似している。福間が転じてふみとなったものとも考へ得る。併(しかし)地名の一致はともあれ、余は前記二項の理由によって、不彌国を以って、今日の津屋崎附近を推定するのである。