ヒントは『日本書紀』にあつた

 笠井新也が指摘するように、大阪湾の上陸地点から、大和を目指すのであれば、どの場所であろうと、数日あれば到達できる。一月もかかることは無い。この点が、邪馬台国大和説の弱点であった。
瀬戸内海航路を想定する論者は、一月は一日の誤りとしたり、水行すれば十日、陸行すれば一月というような説を立てる。だが何れも納得しがたい説である。私もまたこの「陸行一月」の解釈に戸惑った。

この難問を解決するヒントが『日本書紀』にあった。
『日本書紀』推古天皇一六年に、次のような興味深い記事を見る。

『一六年(608年)夏四月、小野妹子(おののいもこ)は大唐(隋)から帰朝した。隋の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。 大唐の使人裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫についた。 難波吉士雄成(なにわきしおなり)を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。 六月十五日、客たちは難波津に泊った。・・・中略・・・
秋八月三日、唐の客は都へはいった。この日飾馬七十五匹を遣わして、海石榴市(つばきいち)の路上に迎えた。』

裴世清たちは、四月に筑紫、すなわち九州に着く。そして六月十五日に難波津に到着する。
一行は難波津の迎賓館に相当する館に留め置かれ、飛鳥の都に入ったのは八月三日である。
難波津に一ヵ月半以上留まったのである。もし日本列島の地理を、まったく知らない人が、この日付の記述によって、地理像を想定したら、難波津から都まで一ヵ月半と想定したとしても不思議はない。

『魏志倭人伝』の陸行一月の記事もこれと同じようなことが考えられる。魏の使者を迎えるための準備が整うまで、大阪湾のどこかに留め置かれたのである。
地理像を描いた人物は、この滞在した期間を、移動した日数と誤解したのである。
『魏志倭人伝』の最後の行程、「陸行一月」とは、このような誤認に基ずく記述である。その証拠に、上陸地点の国名や官の名前、戸数は何も記さない。ここは、もはや邪馬台国の一角なのである。
ここから邪馬台国の都までは二、三日である。

多くの研究者が、この極めて不正確な地理像に、翻弄され続けてきたのである。今もなお、この不正確な地理像で、邪馬台国の場所を確定しようとする人は後を絶たない。

邪馬台国探しが混乱に陥った最大の理由。

 だが邪馬台国探しが混乱した最大の理由は、この地図の不正確さだけにあるのではない。

最大の原因は、邪馬台国と大和朝廷の関係が不明であったことによる。『魏志倭人伝』にも『日本書紀』にも、この関係を解明する手掛かりがないのである。

私は、古代有力豪族系譜の中に、この二つの関係を結びつける、ミッシングリングを見た。邪馬台国所在地論は決着すると考える。

詳しくは私のブログ「この人が卑弥呼」又は左記の電子本を読んでいただきたい。